長く、寝たきりの状態だった友人の訃報を聞いたのは、私が孫の運動会で上京し、息子のマンションにいた時でした
長く、彼女のお世話をしていただいていた、ケアマネさんからの連絡でした。
私が上京する前日の夜、珍しく、彼女から電話があって、長い話をしていました。いつものように、取りとめもない話と、私の心臓の病を心配してくれたり、心を寄せてくれていました。
まさか、4日後に・・・・
(4日後の訃報の連絡には、大きな驚きとともに、大きな悲しみで、しばらく立ちつくしていたと思います
彼女は、享年66歳。
66年の人生のうち、最高に幸せだった子供時代。裕福な家庭のお嬢様として育ちました。
親の反対はあったものの、大恋愛で自分の思いを貫き結婚してすぐ・・彼女の人生は大きな波にのまれます。彼女は慢性腎不全の病に倒れ、人工透析に頼る事になります
結婚生活も透析に通う彼女の気持ちを逆なでするかのように、御主人は他に女の方ができ、自分のほうから身を引く格好で破綻をきたし、一人の生活が始まりました
34年にわたる人工透析で、血管はボロボロになり、辛い痛みに顔をしかめながら、痛みに耐える彼女の姿に、私の思いは正直、複雑でした。
彼女は、生前、三重大学に献体を希望していました
彼女の希望に沿う形で、亡くなった翌日、友人たちに見守られ、三重大学に永久の旅に旅立ちました
(私も送りたかったのですが、息子のところから、台風の影響で帰宅が一日遅れ、彼女を送る事ができませんでした)
あまりにも、あっけなく逝ってしまった彼女です
仲の良かった友人たちの間で「お別れ会」の話が出始めました
私も大賛成。友人たちの御尽力で、今日のお別れ会となりました
その生涯を思うとき、幸せだったのか、幸薄かったのか。。色々と私の思いは複雑でしたが、今日のお別れ会に来ていただいていた方々とのお話をさせていただく中で、彼女との思い出に触れ、なにより、このようにたくさんのお友達に集まってもらえる彼女は、幸せな人生であったのだと思えてきました
男女合わせて26人。それぞれが、故人との思い出話を披露し、涙あり、笑いありの和やかな時間でした。
彼女がまだ寝たきりの状態になる前、車に乗れない私は、彼女の運転で一緒にアチコチに出かけました
車から降りると、彼女の車いすを押すのは私。
私たちって2人で1人やね。。大きな声で笑ったことも思い出です。
寝たきりの状態になってからの彼女の楽しみの一つに、毎日の私のブログを、ケアマネさんに読んでいただく事だったと、訃報の連絡を受けたケアマネさんから、伺いました。
そんなこともあって、一番に連絡させていただきましたと・・・
私のつたないブログが、彼女の生きる力のハシクレになっていた事も聞きました。
「あんた!また美味しい物食べてきたんやなぁ~~」外の世界と隔離されてしまった彼女は、私の紹介するお店を楽しみにしてくれていました
「孫って可愛いんやろなぁ~~」彼女は子供に恵まれませんでした。
孫の話題は、自分の孫のように、目を細めてくれました
私が孫の事を「親善大使」と呼びますが、親善大使と名付けてくれたのは、彼女です
彼女との思い出を語り始めると、延々と続きます
寝たきり状態で、よくなる希望も薄れる中、痛みに耐える彼女の姿を思い出すとき、お別れは辛いことですが、これでよかったのだと思う気持ちが大きくなり、今日のお別れ会を、一つの区切りとしたいと思っています
キーボードが涙でかすみます。合掌
備忘録 10月6日 午後6:45 66歳にて永眠
お別れ会 10月25日 午後6:00より 四日市シティホテルにて
長く、彼女のお世話をしていただいていた、ケアマネさんからの連絡でした。
私が上京する前日の夜、珍しく、彼女から電話があって、長い話をしていました。いつものように、取りとめもない話と、私の心臓の病を心配してくれたり、心を寄せてくれていました。
まさか、4日後に・・・・
(4日後の訃報の連絡には、大きな驚きとともに、大きな悲しみで、しばらく立ちつくしていたと思います
彼女は、享年66歳。
66年の人生のうち、最高に幸せだった子供時代。裕福な家庭のお嬢様として育ちました。
親の反対はあったものの、大恋愛で自分の思いを貫き結婚してすぐ・・彼女の人生は大きな波にのまれます。彼女は慢性腎不全の病に倒れ、人工透析に頼る事になります
結婚生活も透析に通う彼女の気持ちを逆なでするかのように、御主人は他に女の方ができ、自分のほうから身を引く格好で破綻をきたし、一人の生活が始まりました
34年にわたる人工透析で、血管はボロボロになり、辛い痛みに顔をしかめながら、痛みに耐える彼女の姿に、私の思いは正直、複雑でした。
彼女は、生前、三重大学に献体を希望していました
彼女の希望に沿う形で、亡くなった翌日、友人たちに見守られ、三重大学に永久の旅に旅立ちました
(私も送りたかったのですが、息子のところから、台風の影響で帰宅が一日遅れ、彼女を送る事ができませんでした)
あまりにも、あっけなく逝ってしまった彼女です
仲の良かった友人たちの間で「お別れ会」の話が出始めました
私も大賛成。友人たちの御尽力で、今日のお別れ会となりました
その生涯を思うとき、幸せだったのか、幸薄かったのか。。色々と私の思いは複雑でしたが、今日のお別れ会に来ていただいていた方々とのお話をさせていただく中で、彼女との思い出に触れ、なにより、このようにたくさんのお友達に集まってもらえる彼女は、幸せな人生であったのだと思えてきました
男女合わせて26人。それぞれが、故人との思い出話を披露し、涙あり、笑いありの和やかな時間でした。
彼女がまだ寝たきりの状態になる前、車に乗れない私は、彼女の運転で一緒にアチコチに出かけました
車から降りると、彼女の車いすを押すのは私。
私たちって2人で1人やね。。大きな声で笑ったことも思い出です。
寝たきりの状態になってからの彼女の楽しみの一つに、毎日の私のブログを、ケアマネさんに読んでいただく事だったと、訃報の連絡を受けたケアマネさんから、伺いました。
そんなこともあって、一番に連絡させていただきましたと・・・
私のつたないブログが、彼女の生きる力のハシクレになっていた事も聞きました。
「あんた!また美味しい物食べてきたんやなぁ~~」外の世界と隔離されてしまった彼女は、私の紹介するお店を楽しみにしてくれていました
「孫って可愛いんやろなぁ~~」彼女は子供に恵まれませんでした。
孫の話題は、自分の孫のように、目を細めてくれました
私が孫の事を「親善大使」と呼びますが、親善大使と名付けてくれたのは、彼女です
彼女との思い出を語り始めると、延々と続きます
寝たきり状態で、よくなる希望も薄れる中、痛みに耐える彼女の姿を思い出すとき、お別れは辛いことですが、これでよかったのだと思う気持ちが大きくなり、今日のお別れ会を、一つの区切りとしたいと思っています
キーボードが涙でかすみます。合掌
備忘録 10月6日 午後6:45 66歳にて永眠
お別れ会 10月25日 午後6:00より 四日市シティホテルにて
本当によく頑張られましたね。
34年間の透析ってどれだけ辛かった事か。
でもね、私達もいつかは逝かなきゃいけない世界でしょ。
こうしてお友達同士お別れ会を開いて戴いてその方の人生はきっと幸せだったのだと思いますよ。
懐かしく思い出してあげることが一番の供養です。
これからものんきさん、元気なブログを書いてアチラの世界からも読んでもらいましょうね。